モンテビデオに来ています。
Archiprixという、世界の卒業設計コンクールのようなものの審査をするためです。
世界中の卒業設計が集まっているのはなにか不思議な感じで、その中で、日本からのものは、なんとも独特の雰囲気を放っていました。
いい意味で、コンセプトがわかりやすい、悪い意味で、それ以上に突き詰めていない。
だから第一段階の審査ではほとんどちゃんと残っているのですが、そのあとどこまで上がっていけるかは、やはり案の持つ力が問われる。なんとなく雰囲気で作っているものは、引っかからない。
でも全体としてみると、日本勢は優秀です。結果についてはまだ言ってはいけないようなので差し控えますが、別に僕が推したわけではないけれど、多くの理解を得られていました。
そして先ほどレクチャーを終えてひと段落。明日の飛行機でロンドンに向かいます。
モンテビデオに入る前に、ブエノスアイレスに2日半いました。
ブエノスアイレスは、ぼくにとってはボルヘスの街であるということで、なにか特別な思い入れがある街です。もちろん、当時とは街の様子はおそらくだいぶ変わっていて、一部残っているらしいところも、観光地化されたり、なんだり、ということで、少し残念ですが、奇妙な大都市という感じでした。
しかし、南半球に来ても、都市というのは、やはり都市ですね。
これは建築家が悪いわけでも、現代という時代が悪いわけでもないはずですが、ブエノスアイレスにも、思わず東京かと思ってしまうような場所があり、そうなってくると、どうしてこう均質化してくるのだろうと不思議に思えてくる。昔の街を期待するというのは、意味のないノスタルジーだとは知りながら、しかしなにかさびしいものがある。
と思って、モンテビデオに来てみたら、ここはまだ毒されていない何かがあるようです。僕が単なる古い町をありがたがっているだけなのか。
昨日は、コロニアとうい世界遺産になっている小さな町に行ってきましたが、映画のセットのような街で、ここまで行ってしまうとやはり素晴らしい。
などなど、都市についていろいろ考えさせられるのですが、そもそもの発端は、先月モンゴルからの帰りに、北京のMADという若手建築事務所を訪ねたんですね。彼らがマスタープランをしている中国南西部の街を作るという、世界から10組くらいの建築家が参加しているプロジェクトに僕たちも呼ばれていて、その用事もあって訪ねたのですが、彼らは世界中に、くねくねした超高層をたくさん計画している。それら大量のCGを見ていると、未来の街って、こうなっていくのかな、という何とも不思議な気分になってくる。都市というのは、こういう些細なことで大きく変わっていってしまうのか、と。それ以前は、そんなくねくねビルをいくら作って、本質的な部分の提案ではないのだから、なんにも変わらないよ、と思っていたのですが、意外と変わってしまうんじゃないか、都市ってそうやってできていてしまうんじゃないか、という危機感のようなものを感じたのでした。
振り返ってみると、ぼくたちは、都市に対して、なんの提案もしていない。
建築について深く考えることが、ゆくゆくは都市をも変えていくんだと思っていたのだけれど、実は、都市というものに何の形も与えていなかった。
帰国直後に、先日出たJAのシンポジウムがあったので、そのあたりの疑問をみんなにぶつけてみたのですが、僕自身よくわかっていない問題だったので、そのままなんとなく立ち消えに。
そのJAの特集が、風景の解像力、ということだったのも僕にとっては大きなショックで、つまり、ぼくも含めて、今あるものの中により微細に、何かを見ていこう、というまなざしの解像力を取り上げているわけですが、それが一歩間違うと、単に内向きの狭い掘り下げになってはしまわないだろうか、という危機感もあったのです。
僕自身、内と外の間に無限の領域を見る、とか、自然と人工の間に豊かな新しい領域を見る、というようなことを言っているその先で、新しい都市の形を提案できているのか、と疑問に思っているのです。
建築というのは、世界に形を与えることだ。
それ自体がものすごく暴力的なことだとすれば、ぼくたちはそれを引き受ける準備ができているのか。
見るだけなら、ぼくたちは安全なのだから。
それはそれとして、ブエノスアイレスに飛ぶ前の半日を、再びキンベル美術館で過ごしました。
初日に驚いた以上に、ものすごい存在でした。
このヴォールトは、光っているというのではなく、光と物質の間のような、そういう存在として頭上にある。こんな建築は初めてでした。